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目的半分、暇つぶし半分。

文章力をあげるため、そしてなにより暇つぶし。

自己紹介するなら、他己紹介するでしょ

今回はKが担当。今回のテーマは「掃除」。ホントは「ジンクス」にしたかったんです。

でもテーマを決める当時、この「ジンクス」という単語がどうしても出てこずじまい。そんなときふと思いついたのが「掃除」でした。 (テーマを決めた翌日に思い出す、そうだ「ジンクス」だ!!)

テーマを選ぶときにはたいてい、どんなことを書こうかを逆算してから決めます。にもかかわらず、逆算を一切せずに「掃除」をテーマにしてしまうこの無鉄砲ぶり。これは「堀の内の御祖師様」にお参りに行かなきゃ治りません。


(本題はいるまえに他己紹介)

Jが記事を執筆してくれました。Jの記事を読んだ感想を述べることにしましょう。記事を読んだ人間は「神経質なヤツ」という印象を抱いたはず。その印象、全くもって正しいです。1日中、正義とか幸福とかをあーでもない、こーでもないと考え続けるんです。神経質じゃなきゃ大学で哲学なんてできませんよ、そりゃ。

Jの属する大学院、学問の世界では「正確さ」が何よりも重視されます。哲学者の本は「わかりやすさ」でいったらダントツで読みにくい分類に属します。まず、哲学者はこちら側に譲歩はしません。哲学者は自分と同じぐらいの知性を持っている人間に対して本を書きます。

僕が読んだことがある「人間知性論」の本なんて読みにくいこと、読みにくいこと。本のある箇所で「主張1。その理由1、その理由2、その理由3、その理由4」という展開がされているところがあります。

「理由3」は「理由2」の理由? それとも、「理由3」は「理由1と理由2」あわせた理由なのか?? はたまた、それとも・・・。あー、もう知らんわ。

こんな文章と格闘しているのが、Jなんです。だからこそ「私の思考の傾向とその表現としての文章」なんていう「表現」ができるのです。だからこそ「そのコンパが特定のジャンルに特化したもので、あるテーマについて深く語り合う場であるなら問題ないのでしょうが、普通自己紹介で話す内容は、さわり程度でそれ以上のレヴェルは求められていません。」と書いて、Kの自己紹介は程度を超えているぞ、適当なものでない、正確性にかけてねぇか、と暗に批判を込めて書いているのです。(※完全なKの憶測です・・・)

2人の自己紹介の捉え方はさておき。なぜ、そんなJをブログに誘ったのかを書くことにしましょう。これはJにも言っていないことです。たぶん、彼は勢いで誘ったんだろうと思っていることでしょうが。それは10%ぐらい。でも、90%は違います。

じゃあ、その90%はなんなのか。それは偏屈野郎の「哲学者」をそばに置いておきたいからです。


会社に入るといろんな単語を耳にします。「お客様目線」、「わかりやすい書き方、プレゼン」、「創造性」、「コミュニケーション力」・・・・。100人聞いたら100人が重要だと感じるビジネス最重要事項のオンパレードです。

でも、哲学を4年間やってきた人間からすると違和感を感じざるを得ません。

まず、「お客様目線」。

「お客様目線」はいうなれば、他人の立場に立って物を考えろ、ということでしょう。でも、それって可能なの? 自分ですら本当は何を望み、欲しているのかわからないぐらいです。いわんや、他人をや。


「わかりやすい書き方」

「わかりにくくしよう」、こう考えて書くヤツ、プレゼンするヤツなんていません。「わかりやすさ」がなんなのかを分かっていないだけなのです。でも、そんな人間に対してアドバイスされることは「文字数を少なくしろ」、「声を大きく」ぐらいのものです。みんな「わかりやすさ」がなんなのかという究極の問いを避けて避けて、避けまくって煙に巻きます。


「創造性」

これまでにないものを生み出すということ。仮に生み出したとして、これまでにないものを誰がどう評価するの? むしろ、こんなものは見たことないとか前例がないとか言って拒絶反応犯すんじゃない?


「コミュニケーション力」

大嫌いな単語。値段をまけてもらうのも、弁護士が検察を屈服させるのも、強盗が銀行員を脅して金を出させるのも「互いに考えていることを伝え、理解を得ること、認識を共有すること」すなわち、コミュニケーションです。あんたのコミュニケーションって何を指してるの? 幅が広すぎます。


「仕事は楽しくやろうと思ってやらないと面白くありません」

みなさん、好きな趣味をやっているとしましょう。「楽しくやろう」なんて思いますか?思わないでしょう。「楽しくやろう」ということは「つまらない」と思っているからこそでてくる発想です。つまりですね、この言葉を発するということは「仕事ってつまらないもんだよ」と言ってるに等しいのですよ。そこまで考えて言っているのか。


世の中ではこういう曖昧な言語が飛び交っています。もちろん曖昧だからこそ個性を出すことができるとは言えます。「コミュニケーション」、100人いれば100通りの解釈、十人十色。「ヨイショすること」、「主導権を握ること」・・・。縛りが多いと思われるサラリーマンでも個性を発揮する余地が残されているのです。

でも、最近強く思うのがろくに考えもせずに言葉を使っているんじゃないかってことです。とりあえず言っておけばいいみたいな。

こんな単語に出くわすと心のうちでは憤慨するとともに、すこしホッとする気もします。「あぁ、俺はまだこの人たちのように思考停止してないんだな」

もしかしたら、この人たちに洗脳されてしまう日が来るかもしれない。でも、「哲学者」がそばにいれば、洗脳から逃れられるんじゃなかろうか。これがJを誘った割合90%の部分です。Jは一生、哲学からは逃れられないでしょうからそばに置いておけば哲学者のものの観方、捉え方を忘れずに済みます。洗脳から逃れる手段としてJを利用しているのです。利用するなんて、失礼だ? いやいや、利用するってことはそれだけ価値を認めているということですよ。価値をみとめてなきゃ、利用したりなんぞしません。(理屈っぽいなぁ)

うーん、でも思考ストップするのも頭の良さの一種なのかもしれないなぁ・・・。 てか、結局「掃除」をテーマに書かなかったな・・・。 まぁ、いいや。